日記

どこにでもいる人の、ありふれた日記です。

三島由紀夫を読んだら笑って泣いてしまった

恥ずかしながら、この歳になるまで三島由紀夫を読んだことがなかった。

 

何となく、どうやって死んだのかくらいは知っていたけれど、きっと、気難しくて頑固で冗談なんてひとつも言わない人なんだろうなと思っていた。仕事を辞めて、自分の好きなもの以外にも少しだけ目が行くようになって、三島由紀夫の本を読む気持ちになった。私の家の近くの図書館は分館のようなもので、置いてある本の種類はあまり多くなかった。三島由紀夫の本も、いわゆる有名どころは置いていなくて、(私にとっては)ちょっとマイナーな本が2,3冊置いてあるだけだった。わざわざ他の図書館に行くのも面倒だったので、とりあえず聞いたことのない本を読んでみることにした。借りてはみたものの、まとまった時間が取れなかったのもあって、なかなか読み始めることをしなかった。しばらくして、少し時間が空いたので試しに読んでみると、今まで三島由紀夫に抱いていたイメージがひっくり返ってしまった。そうして、なんだ、この人はとビックリしてしまった。きっと普通の人が何年も何年もがんばったとしてもたどり着けないようなことばかり書いてあって、しかもそれが今読んでも全く古くない。むしろ、これは最近書かれた本ですと言われてもおかしくなかった。三島由紀夫は、とても頭がよくて、でも自分の能力以上の力を持っているという勘違いなんてしていなくて、人のいいところや悪いところに直面したとしても、決して感情を乱すようなことはなくて、それをおもしろいと思うことができるような人なんだと思った。読んでいる時は、表情がゆるんでいるのが分かった(たぶん、この本を読んで笑っている人はそうとう性格が悪いと思う)。 

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

 

 それで、そんな感じで私の心はすっかり三島由紀夫に奪われてしまったので、次はちゃんとした本を読もうと思って、金閣寺を借りた。そうしたら、不道徳教育講座で見えたおちゃめな部分なんて全くなくて、あまりの文章の上手さに悔しくて泣きそうになった(かなり失礼なことだけれど)。どんなにがんばっても、三島由紀夫のように世界を見ることができないと分かったからだった。こういう、努力だけではどうにもならないくらいのいい本やいい音楽に出会った時(たぶんめちゃくちゃ努力してるんだとは思うんだけれど、それすらも才能のような気がしてる)、私は、私が何でもないような、普通の人間であることが際立ってしまって、ああ、かなわないなと思ってしまう。私の世界は普遍的なもので、大体みんなが経験してきているものなのに。こういう斜に構えた考え方はそろそろやめなければならない、いい歳なので。

 

金閣寺 (1956年)

金閣寺 (1956年)