日記

どこにでもいる人の、ありふれた日記です。

自由は毒だという話

何にも縛られなくなると、誰かに相談することが難しくなる。

ある悩みが発生したとして、自分だけじゃどうにもならなくなったとき、さて、誰に相談すればいいのかなとなる。

例えばまだ親の扶養で生活していたときには、大きな決断をするときには大体親の許可をもらう必要があった。それに学生ならば学校の先生というものは生徒からの相談を受けるために存在している。極端な話、病にかかって病院へ通うようになれば患者として先生に意見も求めることができる。

けれども、社会人になり、自分でお金を稼ぐようになって、自分のことは自分で決められるような、(基本的には)心身ともに健康な人というのは何からも縛られない自由を手に入れる代わりに自分で決断をしなければならなくなる。もちろん、親や友人に相談することもまだできるけれど、昔と比べて、最終的に決断するのは自分という部分が大きくなっている。例えば、結婚したいと思う人がいたとして、浮気ぐせがあるとか、ギャンブル好きとかで迷っているとする。普通の人はきっと仲の良い友人に相談したり、親や兄弟に意見を求めたりする。そうしてたくさんの人が、いろいろな意見を言ってくれるのだけれど、その意見に対して責任を持ってくれる人は誰ひとりいない。

子どもの頃であれば、子どもの決断は親の生活にも大きく関わってくるであろうから、親は必死に考え、意見する。万が一失敗すれば、自分も責任も負わなければならないからだ。これは学校や病院の先生にもあてはまる。結局はみんな、自分がいかに生きやすくできるか、ということだけ考えている。だから相談された人の決断によってもたらされる結果が自分に関係のないことであれば話を聞くことすら嫌がる人もいる。もしかしたら皆それを本能的にわかっていて、せっかく独り立ちしたのにまた結婚という縛りに自分から飛び込んでいくのかもしれない。

私はそれをわかっているので、なるべくならば自分のことは自分だけで決めたいと思っている。うっかり相談して意見をもらって、その通りにしたら失敗してしまった時のことを考えたくないので。そのような意味のないことで、関係を終わりにしてしまうのなんでばからしいと思っている。

ただ最近は、自分の決断がことごとく悪いほうにしかいかないので、自信をなくしているのも事実だ。私が今思っていることを誰かに全て洗いざらい話して、「こうしなさい」と言われてその通りにしたい。

この前インターネットで知り合った名前も知らない人とお寿司を食べたとき、その人は「不自由は悪」だと言っていた。何人たりとも、自由になることを制限されてはならない、という考えらしい。私は「自由は毒」だと思った。たくさん接種すればするほど、じわじわと苦しめられていって、ついには全く動けなくなってしまう。少量をたまに取るのであれば、むしろ薬になるのかもしれないけれど、多すぎる自由はとても危険なものだ。

それを知らないで、私はきらきら、ふわふわしていて、とっても甘いとうわさの自由というものを食べてみたいと思ってしまい、こんな感じになってる。

メロンパンみたい。私は、メロンパンの外側だけが好きだ。