日記

どこにでもいる人の、ありふれた日記です。

山奥の小さな温泉に行った

車を降りると、腐った卵の匂いが鼻についた。どうやらこの辺は、硫黄の温泉みたいだ。今回日帰り入浴に来た旅館の外観は真っ白なコンクリートで覆われていて、趣なんてものはなかった。ガラスの引き戸を開けると正面に座っていたおじいさんと目が合った。おじいさんはこの旅館の人で、私を見ると立ち上がって、日帰りの人はそちらで靴を脱いで下さいと言った。室内はひどく薄暗くて玄関には大量のスリッパが乱雑に並んでいた。内装も簡素で必要最低限の作りであったので、なんだか公民館などの公共施設のようだと思った。おじいさんに代金を支払うと、温泉は3階にあると教えてくれた。階段を上って2階まで行くと、いきなり大きな白熊のはく製がこちらを睨みつけていたので驚いてしまった。白熊は今にも噛みつきそうな顔をしていたので、あまり凝視することができなかった。3階への階段は2階のフロアの反対側にあったので、フロアを横切って行った。どうやら2階は客室のようで、それぞれの部屋に花の名前がついていた。2階の電気も消えていて、私の歩く先を示すものは大きな窓から入ってくる自然光だけであったので、やはり少し薄暗く、遠くの方は洞窟の奥のように何も見えなかった。宿泊客はすでにチェックアウトしてしまったのか、それとも予約すら入っていないのかはわからなかったけれど、今の時間は私以外誰もいないようだった。壁や床には豪華だけが取り柄の絵や壺が飾ってあって、昔は大いに賑わっていたのだろうと容易に想像できた。けれども、薄暗い室内で、私のスリッパの音だけがパタパタと響いているのを聞いていると、もう何年も、宿泊客がいないのではないかという気にすらなってきた。もしかしたら先ほどの白熊も、久しぶりの人間だと張り切って、めいっぱい怖い顔をしてくれたのかもしれなかった。何年も宿泊客がいないなんて、ありえないことはもちろんわかっているのだけれど、そう思わせるほど、まるで時間が止まってしまったかのような場所であった。3階に到着して少し歩くと小さな2つの引き戸があり、それぞれに男湯と女湯の暖簾がかかっていた。女湯の暖簾をくぐった先に脱衣所があり、その向こう側が内湯になっていた。温泉には誰もいないようだった。早速いそいそと服を脱いで風呂場の戸を開けた。木でできた正方形の浴槽の中は白く濁っていて、かすかに硫黄の臭いを感じた。硫黄は長時間吸っていると危険なので換気のために窓が開いており、内湯にもかかわらず露天風呂のような寒さだった。すっかり身体が冷え切っていたため、まず先に温泉に浸かることにした。しかし、掛け湯をしたあと湯船に足先をそっと入れたのだが、かなり熱くて中々浸かることが出来ない。だが身体は寒くてどうにも我慢できなかったのでどうしようかと思っていると、水を入れるためのホースを見つけて助かった。ちょうどいい温度で入る温泉は最高だった。外はしんとしていて、チョロチョロと源泉が流れる音だけが響いていた。しばらく浸かっていると身体が温まってきたので、一度外へ出て頭と体を洗ってからもう一度湯船に浸かった。しばらく経つと足先がジンワリしてきて、お湯と一体になったような感覚になってくる。私はそれを「体の芯まで温まる」ということだと思っていて、その感覚になってから上がるとしばらくは湯冷めしないのであった。

1時間くらい入浴して体の芯まで温まったので、服を着て旅館を後にした。これが映画であれば実はおじいさんは狐か狸で、旅館は次に来た時には跡形もなくなっているのだろうけれど、観光マップに堂々と載っているのでそんなに上手いことできてないみたいだ(観光マップごと騙していたら話は別だけれど)。